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生きた岡山弁が聞ける映画

最近、岡山は映画のロケ地として売り出しているらしい。その理由は「どこにでもある街の風景が多いから撮りやすい」という何ともトホホなものだが、特にこれといったウリのない岡山らしいエピソードでもある。 それとは別にいわゆる「ご当地もの」映画も妙に流行っていて、岡山でも何本か撮影・公開された。タイトルは控えるが、それらの殆どが地元をレペゼン、いやプレゼンするための人畜無害ムービーだ。制作費を出しているのが地元企業だから仕方ないのかもしれないが、はっきり言って観る価値は殆どない。 CMを2時間も眺めて退屈しない訳がない。舞台が岡山で台詞が岡山弁なだけじゃ、満足できないのだ。


スクリーンで生きた岡山弁を聞いたのはこの1本だけ。2000年、阪本順治監督が撮った「新・仁義なき戦い。」だ。深作「仁義~」の金看板を背負い、東映としては結構なプロジェクトだったはずだ。話題作りの為か、音楽監督の布袋寅泰を役者としても起用した。しかも在日コリアンの準主役だ。阪本監督は結構トリッキーな起用をするので、これはもしかしたら監督キャスティングかもしれない。


結論から言うと、映画の評価は芳しくなかった。興行収入も2億円に留まった。つまり「仁義~」ファンから「これは仁義なき戦いではない」と言われてしまったのだ。それもそのはず。舞台は現代で、しかも大阪だ。あの広島弁が、手持ちカメラの深作演出が好きだという「仁義~」ファンには到底受け入れられるものではなかっただろう。内容も地味でドンパチは殆どない。痺れるような掛け合いもない。けれども、それは暴対法が施行された現代においてリアリティを出そうとするならば仕方のない事だし、その悲哀こそがこの映画の面白味でもあったと思う。


しかしまあ、おれがこの映画を偏愛するポイントはそこじゃない。さっき書いたように、生きた岡山弁が聞ける希少な映画だからだ。


さて、大阪が舞台の「新・仁義なき戦い。」でなぜ岡山弁が出てくるのか。これは実のところわからない。この映画に「岡山」という言葉や地名を匂わすエピソードは一切出てこないからだ。だから、ここから先は憶測になる。


岡山弁を喋るのは、大和武士演じる「遠山」というヤクザだ。彼は関西の有力組織、佐橋組の跡目争い最有力候補「中平」の兄弟分だった。そして10年前に中平の罪を背負って刑務所に入り、つい最近出所してきたばかりだ。しかし遠山はその中平から非情な仕打ちを受ける。


「遠山さん、俺や、門谷や。戻ってきたんやな」


「…安定剤と睡眠薬でトンでるヤクザなんか、笑おうが」

「お前、ワシが中平の兄弟分じゃいうこと、知っとるの?」


「うん、せやったな」


「ワシャ中平の罪背負ってムショで10年も臭い飯食うてきたんじゃ。そのお返しに中平、どがん抜かしたと思う?足洗ぅてオンナと店でも出せじゃ言うて。なんじゃそりゃ。おどれは佐橋の四代目になろうっちゅうのに兄弟分のワシはクズ扱いじゃ!」


「クソったれがぁ!ゼニがないんじゃ!ゼニが!」


「お前んとこの(ボスの)粟野は中平には勝てんぞ…粟野磨けりゃ…粟野はもうサビのまわった極道じゃ。ワシとおんなじじゃ」


「…1億出すなら…ワシが中平殺っちゃるけん。サビた刀も使いようじゃ」


この生きた岡山弁はどうだろう。文字を起こしていてもワクワクする。もちろんオリジナル仁義のオマージュとして広島弁を喋らせたのではない。それは地元の人間ならすぐわかる。

実は遠山演じる大和武士、岡山・矢掛町の出身だ。プロボクサーとして活躍し、阪本監督のスカウトで俳優デビューしている。傷害事件を起こして少年院に入るなど生粋の不良でもある。遠山という役は、恐らくそんな大和武士のキャラクターを生かし「岡山出身だが、大阪に出て一旗揚げたヤクザ」として色付けされたのではないか。それは全く不自然な話ではない。その遠山がこの映画で最も輝いている。出世を夢見て兄弟分の罪をかぶり、梯子を外されたヤクザの無念さ。もちろん大和武士の演技が素晴らしい。


この岡山弁を聞くためだけに映画を見ても損はないと思うのは、おれだけだろうか。ラストに至る直前のシーン、中平の命を狙う主人公ヤクザ門谷との短いやり取りもたまらない。


「中入っとけ」


「知ってる人やったら入ってもうたらええのに」


「ええんじゃ。モノ渡すだけじゃ」

(無言で拳銃を門谷のポケットに差し入れる)


「済んだら返す」


「もうワシには用はないけん」


「悪いな」


(中平からの開店祝いの花輪を見て)

「葬式の花輪に変えて送り返したれ」


「クスリ、わけてくれ。酒じゃ収まらんのや、耳鳴りが」


「もう一個や、全部持ってけ」


「どうせウンコの世の中じゃ」

かつて門谷に「1億出すなら…ワシが中平殺っちゃるけん」と息巻いた遠山だが、ヤクザとしての死を悟り「もうワシには用はないけん」と門谷に拳銃を譲り渡す。もちろん、中平を殺るためだ。そして自らはカタギの道で生き残る。もう安定剤も睡眠薬も要らないのだ。この映画もまた「ヤクザである限り人並みの幸せは得られない」仁義なき戦いの系譜をしっかり受け継いでいる。そうだ。「仁義~」の金看板は重かったのかもしれないが、21世紀のヤクザ映画として、見所は充分だった。


因みにキル・ビルのテーマ曲はこの映画の音楽を気に入ったタランティーノがお願いしてそのまま拝借したもの。つまりこっちがオリジナルだ。




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