それは、静かに燃え尽きた

最終更新: 2019年8月17日



2005年6月11日 TRYART RECORDS EVENT Vol.6 [CONTACT] at 岡山MO:GLA

6回目となるイベントは前回に引き続きMO:GLA。ラインナップも安定のDJ・VJ・アートチーム+写真展示のクルーで編成された。安定の、と言えば聞こえはいいが程々にマンネリであり手詰まり感はあった。 今回はおれのアイデア「レーベルのTシャツ作ろうや」が採用された。後に隆盛を極めるインディー・アパレルの走りであった……かどうかは知らない。たぶん違う。ここでもおれは素材に拘り、売価も下げてほとんど利益が出ないアイテムを作ってしまった。実の所、この案はレコード以外の作品にもレーベルの通しナンバーをつけたファクトリー・レコードを真似たもので、Tシャツでそれをやりたかっただけだ。 「TRAT-0011」はこうしてリリースされた。そう、おれはどこまでいってもファクトリーがやりたい男だった。だがそれをやる以上、儲かりはしないのだ。

イベント名は前回から「CONTACT」に変更されていた。いつまでも「Come Together」じゃね。これはthe Baamusicのドラムス村上マンのアイデアだったと思う。脱ビートルズにしてポジティブ、なおかつ都会的なワードチョイスだ。未知との遭遇みたいな、新しい出会いを感じさせるタイトルでもある。(まあ、次回で終わるんだけれども)


目新しさを出そうと、舞台演出は凝りに凝った。ステージの前に白い大きな幕を張り、そこに佐藤君の映像を投射してバンドの登場と同時に落とす仕掛けは何度も練習し、本番でもバッチリハマった。オープニングにしてハイライト。忘れもしない、そのナンバーはthe Baamusicの代表曲とも言える「ハイランド」だった。


DJ陣にはMISACTHAN、つまりthe Baamusicのみさっちゃんが名を連ねた。彼はDJ機材を持っていないにも関わらず何故かDJをやることになってしまい、MTRを持ち込んで曲を繫げるという荒業をやってのけた。もう一人のDJ「Y4K」は誰だったか忘れた※1。この頃、何故か「DJをする時は変名で」という謎の流行があったのだ。心当たりがある人は名乗り出て欲しい。


※1 ユウシ君本人から「Y4Kはおれです!」と返事あり。Yゆう、4し、Kくん、なんだと。確かにこの並びで、この人がDJをしない訳はなかったよな。


もちろん、おれもレギュラーDJ(当時はSTEALTHと名乗っていた、らしい。覚えてない)として参加し、グリグリのドラムンベースをかけて安定のオーディエンス置いてきぼりをかました。TRYART RECORDSでのDJ活動においては、最初から最後までエゴイストを通した。その独りよがり具合を反省してオーディエンスとの対話を意識するようになったのはレーベル活動休止後にユウシ君と始めた「両備兄弟社」というDJユニットになってからだ。それ以降、おれの頭の中のリトル・ホンダは死んだ。おれが殺した。

[CONTACT]の動員は116人。後に多くのメンバー、それにお客さんが「一番よかった」と振り返るイベントだった。おれ自身もそう思う。レーベルの内情はともかく、最高のアウトプットができた。やれる事はほぼやり切った感があった。TRYART RECORDSが苦しみながら放った最高の光だった。


この半年後に同じくMO:GLAで開催された[CONTACT Vol.3]でTRYART RECORDSはレーベルとしての活動を休止する。


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レーベルとして機能しなくなった原因の一つはWithin Boundsだった。ベースの池添君が家庭の事情で脱退。バンドはまたもやピンチを迎えていた。活動のペースは更に鈍くなり、他の2バンドと歩調を合わせる事が難しくなってきた。そもそもWithin Boundsはヤマチのバンドだった。そのヤマチが既にいないのだから迷走は当然の事だった。


ユウシ君はWithin Boundsを続けたがっていたが、それも難しいと悟ると自身がドラムスを務めるOASISのコピーバンドaosisの活動にシフトしていった。レーベルオーナーとしては自身のバンドが活動休止をしても他のバンドのバックアップをするか、別の新しい才能を見つけるべきだった。だが自身のバンドがうまく行かなくなるとレーベルに対してのアクションも極端に少なくなった。ユウシ君にはそういう自分勝手な所があった。ただ、少しだけフォローを入れておくと完全裏方のプロデュースワークに廻るのはまだ早い25歳。現役のプレイヤーで、尚且つ出たがりな本人の性格的にも、それを求めるのは酷な話ではあったとも思う※2。


※2 この間、仕事でも病んでいたり何かと大変だったらしい、とは本人談。確かにそんなこと言ってたのを思い出した。

しかし、理由はどうあれエンジンが止まりかけるとレーベルの活動も御座なりになっていくのは当たり前の事で、行動力でプロップスを稼いでいたユウシ君、つまりTRYART RECORDSは急激に求心力を失っていった。

おれ自身にも問題があった。この危機にしっかりとユウシ君をバックアップするなりイニシアチブを取ったりすれば次のヴィジョンが見えていたかもしれなかった。しかし、ここにきてレーベルに対するモチベーションは大きく低下していた。一人ファクトリー計画が行き詰ったのだ。

おれはここまでずっとDJとして参加していたものの「転換DJ」という立ち位置そのものに対して疑問を感じ始めていた。ファクトリー・レコードはバンドとDJが融合することでダンス・ミュージックをライブハウスに浸透させた。オーディエンスが踊る事で「ステージではなく客が主役だ」という価値観を提案したのがセカンド・サマー・オブ・ラブの真髄だった。しかし、TRYART RECORDSのイベントでオーディエンスを躍らせることはできなかった。この時代、日本の地方都市ではロックとダンスミュージックの壁はまだ大きかった。結局、バンド演奏とバンド演奏の合間に行われる「転換DJ」はちょっと音がでかいBGMでしかなかった。DJ中にバンドが楽器の音を鳴らすのも気に入らなかった。

もちろん、それらはただ単におれの努力と実力不足という事でもあった。おれはユウシ君とは違う意味での自分勝手さを貫き通し、オーディエンスの「お気持ち」無視で自分の理想のスタイルを追い求めていた。「笛吹けど踊らず」は当然の事だった。しかし、DJとしてはその閉塞感にうんざりし、果たしてそれを打開しようとする方向性がTRYARTの為になるのかと葛藤した。おれがやりたかった事は、最初からおれだけがやりたい事だった。エゴイストであるが故の協調性のなさがおれの欠点だった。 一方で裏方としても限界を感じていた。例えば映像面でやりたい事、プロモーションできそうなアイデアはあったものの、満足できるクオリティでアウトプットできる製作環境と、それを配信するインフラが整っていなかった。実際問題、レーベルのA&Rとしては相当な手詰まり感があった。もちろん相変わらず資金難でもあった。クリエイティブ面で自分がアウトプットできるような題材がなければ、おれとしてもレーベルを運営する意義を見出すのは難しかった。スマートフォンはまだ存在せず、SNSは動画に弱いmixiの寡占状態で、Youtubeというメディアが登場するのは翌年の話だ。まあ格好良く言えば早すぎた、という事なんだろう。


そして半年後、最後のイベントが開催された。


2005年11月13日 TRYART RECORDS EVENT Vol.7 [CONTACT] at 岡山MO:GLA


実は、この日のイベントの事はよく覚えていない。フライヤーのデータが残っていたから「ああ、そういえばやったっけな」という印象だ。他のメンバーに訊けば見え方が変わるのかもしれないが、おれとしてはそんな感じだった。イベントはおそらくうまくいったんだろう※3。TRYARTのイベントは、当時どのライブよりも演出に手間暇をかけていた。だからお客さんを満足させる自信とスキルはあった。けれども、おれの中では新しいアプローチができなければ「停滞」で「無」に近かった。 ※3 ユウシ君によると130人ぐらい入った最多動員記録のイベントだったらしい。それを忘れるなんて、おれはとんだスットコドッコイだ。 結果的に、TRYART RECORDSはこの日を持って実質的な活動を休止した。ただ、プレスリリースは出さなかった。ユウシ君はあくまでもTRYART RECORDSを続けたいと思っていたし、休止状態を認めたくもないと言ったからだ。だから公式サイトはしばらく何の更新もされないまま残った。各バンドにも休止をしようという話はなかったと思う。しかし「終わる」空気は誰もが感じていただろう。「次のイベントの話」を言いだす雰囲気はなく、時間だけが過ぎていった。それは本当に、ロウソクの火が消えるような感じで静かに燃え尽きたのだった。


Chapter:14

長いあとがき


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