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TRYARTファクトリー化計画

更新日:2021年3月17日

2回目のイベントが終われば次は3回目の話だが、その前に快挙があった。THREE QUARTERがNHKのオンエアバトルの出場権を獲得し、見事オンエアを勝ちとったのだ(当時はお笑いとバンドを週替わりでやっていた)。堂々の地上波全国デビューだった。チボリ公園では昼と夜の2ステージをこなすなど、地元バンドでは確実に頭一つ抜けた存在となっていた。この頃になるとghostnoteやFlaming echoも揺ぎない人気と評価を獲得しており、それぞれのバンドは岡山ではない次のステージを狙っているように見えた。



Within BoundsとThe Baamusicもコンスタントにライブを続けており、レーベル運営は今のところ順風満帆といった感じではあった。しかし、やはりイベントの事となると「常にフレッシュな企画を」というプレッシャーはつきまとった。バンドがバンドである以上、演奏以外の事はできそうにないし、オーディエンスもそれを求めていない。そもそも求められているものをやるのが良いのか、新しい価値を提案するのが良いのか。動員もまずまず見込める3回目では、チャレンジすることも一つの手だとは思った。


そういうターンになると強いのはユウシ君で、天性のイベンター気質を発揮し「あれもしたいこれもしたい」と、矢継ぎ早にアイデアを繰り出してきた。やはり「自分のレーベルだ」という自負が強かったのだと思う。その意気込みこそがこのレーベルのエンジンだった。おれはおれで一人ファクトリー計画を推し進め、主にアートワーク面で自分のクリエイティブをばらまいた。バンドは自分たちの事だけを考えていれば良かった。


3回目のイベントは、ゲストを入れずに3マンライブを行うことになった。そして、おれの強い意向で転換時にDJを入れる事になった。TRYARTファクトリー化計画だ。メンバーの中からは「まだ早い」とか「ライブにくるお客さんの事を考えるとDJはちょっと引いてしまうのでは」と懸念の声も出た。その意見はご尤もだが、おれの考えは違った。違ったというか、おれの中のリトル・ホンダがやりたがった。またもやエゴイストの強行突破である。やりたいことを自分の力で実現するのもレーベルの醍醐味だ。すまないな。


そして、DJがいるならVJもいるだろうという事で、ユウシ君だかthe Baamusicのツテだか忘れたが、VJも召喚することになった。倉敷芸科大の学生だった佐藤安くんだ。後に映画版「宇宙戦艦ヤマト」のCGを担当するなど映像作家として大活躍することになる。



2004年5月15日。TRYART RECORDS EVENT Vol.3 「Come Together」 at 倉敷クッキージャー


初の3マン with DJ。何を隠そう、このイベントでDJをするのはおれだった。割と多めの反対を押し切った一人ファクトリー計画であったので、その段取りは自分で付けなければならなかったし、何よりDJはおれ自身がやってみたい事だった。当時はまだ珍しかったPCによるオペレーションだった。ケイスケ・ホンダばりに空気を敢えて読まないおれは初っ端からマイブラの「Only Shallow」をかけ、オーディエンスを置いてけぼりにした。普段から懇意にしていたUK好きの女の子マグミちゃんが目をハートにして「よかったょ~」と言ってくれた以外に反響はなかったが、おれの中では一先ず「よし」であった。 ただし、イベントとしては転換DJが入るとお客さんがお喋りをしたり休憩をする時間がなく、慣れてないと疲れちゃうよね、など反省点は多々あった。実際に誰かから「もうちょっと音量を下げて」と言われ、その時ばかりはおれのテンションもダダ下がりだった。もちろん、そんな事も含めておれはDJというものの本質がわかっていなかった気がする。

トリは今回も飛ぶ鳥を起こす勢いのTHREE QUARTER。普段のライブではやらないような曲を演奏するという企画や、ステージの照明を使用せず映像プロジェクターの投影だけでライブを演出するアイデアは好評だったようだ。


亮君はまた「箸!」をやった。 Chapter:12



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