ボヘミアン・ラプソディ

最終更新: 2018年11月27日

あれは確か、中学2年生ぐらいの時だったと思う。フレディ・マーキュリーが死んだと、MTVか何かのニュースで知ったのだ。それが誰だか知らなかったが、彼がQUEENのヴォーカルである事を知った。死因はAIDSだった。病名を公表した翌日に息を引き取るというセンセーショナルな最期だった。当時QUEENはアルバムこそ出していたものの目立った活動をしておらず、過去のバンド扱いだったように思う。


気になって買ってみたのが、発売されたばかりの「イニュエンドゥ」というアルバムだ。この頃から「ミュージシャンの訃報に触れてその音楽を聴き込む」というハイエナ的行為が常套化し、それは20年以上も続く事になる。最後の時を意識したであろうフレディが吹き込んだその録音物には、死の匂いが充満していた。タイトル曲のイニュエンドゥと、ラストのショウ・マスト・ゴー・オンにやられ、近所の文化屋というレンタルショップに走り、過去作を借りて聴き漁った。「オペラ座の夜」の衝撃はすさまじかった。


このバンドは何者なんだろう。どの雑誌で書かれていたかは忘れたが、クイーン狂として知られるローリー寺西の解説を読んで大まかなアウトラインを理解した。公表はしていなかった筈だが、ゲイを匂わせる話もそこで読んだ気がする。それまで洋楽といえば親が聴いていたBEATLESぐらいしか知らなかったおれが、新しい扉を開いた瞬間だった。


3年になった時、同級生のイグチが「お前QUEENなんか聴いてるの?」と尋ねてきた事がある。イグチは兄貴が洋楽通で70年代~80年代のロックは大体知っている風だった。おれは何でも知ってるイグチの事を少し羨ましく思ったが、なんとなくイグチが聴いているならQUEENもイケてるんじゃないかと安心した。今となってはどうでもいい話だが、当時はそんな事をいちいち気にしていた。後にイグチとは近所のライヴハウス「ペパーランド」で再会する事になる。ハードコア・パンクのイベントだった。18歳の時の話だ。


そんな感じで1年ぐらいはQUEENばかり聴いていた。けれども、その大袈裟で重たい楽曲は長く聴き続けられるものではなかった。当時は歌詞の意味も殆ど理解しようとしなかった。一通り聴いてしまった後で、ある種の虚脱状態、つまり飽きが来てしまい、おれはいつの間にかNIRVANA教団の教徒となっていた。高尚に聞こえるオペラ・ロックよりは、小汚いグランジがお似合いのような気がしたのだ。その後おれはJOY DIVISIONと出会い、人生もろともオルタナティヴの色彩を強めていく事になる。


再びQUEENに触れたのはその4年後、高校を卒業して上京し、奨学生として新聞配達店に配属された時だ。一つ上の先輩にQUEEN狂がいた。この男が大ホラ吹きで、実家の事や兄弟の事など、話す事の何もかもが嘘だった。ただ一つ確かなのは、QUEENを崇拝しているという事だった。音楽学校の学生でギタリストだったのでブライアン・メイの物まねをよくしていた。髪型すらもブライアン・メイだった。ただしメガネをかけていたので、全く似てはいなかった。この先輩の事は嫌いじゃなかったので、少しだけ熱意に押されてQUEENを聞いた。だが、その頃おれはテクノにはまっていて、それとは真逆のQUEENはまたもや記憶の隅に追いやられる羽目になる。そして、二度と「そっち側」に帰ってくる事はなかった。


それから20年、映画「ボヘミアン・ラプソディ」が公開された。評判を聞くにつれQUEENを聴いていた頃の事を思い出し、懐かしさから過去の映像をYOUTUBEで漁った。特にライヴ・エイドと翌年のウェンブリー公演を何度も見た。そういえば動くフレディ・マーキュリーを殆ど見た事がなかった。あの頃ちょっと「もうダサいな」と思い始めていた髭面のオッサンが、めちゃくちゃに眩しく見えた。そうだ、おれはQUEENの事が好きだった。これはもう映画を見るしかないな、と思った。


そんな訳で、昨日「ボヘミアン・ラプソディ」を見てきた。何がどうという話ではないけれど、ものすごく良かった。史実に忠実ではないが、だからとても映画的で、エンターテインメントとして楽しめた。何よりQUEENの事がもっと好きになった。だからもう一度QUEENのファンになろうと思う。チョロいな、おれは。


この興奮が冷めないうちに書いておきたかった。


Queen - Live at LIVE AID 1985/07/13


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