24HOUR PARTY PEOPLE

最終更新: 2019年8月17日

クローゼットの奥にある、雑多なガラクタ入れと化した真っ黒いゴミ箱の中から24HOUR PARTY PEOPLEのDVDが発掘された。NETFLIXにもHuluにもAmazon Primeにも配信を見放された、映画の辺境にポツンと佇むマイナー作品だ。2003年の公開当時はカルチャー誌に大特集されたものだが、大騒ぎしていたのは業界関係者だけで興行収入は惨憺たるものだったらしい。そりゃそうだ。これは遠く英国マンチェスターのインディー・レーベルの内輪話だ。ニュー・オーダーが幾ら有名だからっていっても、ここ日本では知る人ぞ知るバンドでしかない訳だから。



ああ、今でも思い出すよ。本国から遅れること1年。やっと日本で封切られるという時の事を。もちろんおれのフッド岡山では配給されない。ニーズがないからな。だから大阪の映画館まで観に行った。金がないから新幹線じゃなく山陽本線で、だ。公開初日だというのに、大阪だというのに、お客がどう数えても20人いない。スタジオ・ヴォイスで(嫌い。読んでない)、ロッキング・オンで(嫌い。読んでない)、スヌーザーで(嫌い。読んでない)、リミックスで(嫌いじゃないけど読んでない)、あんなに特集されてたのに!マンチェは死んだ、おれが殺した。まさにこの時が映画監督マイケル・ウィンターボトム冬の時代の始まりであったかもしれない。いや、知らんけど。


そんなガラガラの映画館のど真ん中にふんぞり返り、サイケデリックな映像で繰り広げられるB級ムービーを心ゆくまで堪能した。ラストでハッピー・マンデーズの「ハレルヤ」が流れるシーンの演出では思わず鼻の奥がツーンとなった。トニー・ウィルソンは負けたのだ。イアン・カーティスも、マーティン・ハネットも、ショーン・ライダーも負けたのだと思う。けれども敗者は美しい。だから記憶に残るのは、いつも敗者だ。その魂をマイケル・ウィンターボトムが救ったのだ。


もしかしたら、いや、もしかしなくても映画の出来は良くなかった。おそらく誰が見ても楽しめる構成にはなっていない。「彼らのことを知っている奴が楽しめたらいい」マイケル・ウィンターボトムはそう考えたはずだ。おれはその考えに賛成だった。音楽カルチャー誌「以外」の雑誌と多くの映画ファンから驚くべき低評価を頂戴したこの映画は、自分の宝物になった。


さらにその1年後、岡山シネマクレールで24HPPが公開された。初日に行ったかどうかは覚えていないが、その時の観客はおれを入れてたったの3人だった。劇中、トニー・ウィルソンはこう言った。「1976年6月4日、マンチェスターのレッサー・フリー・トレイド・ホールで行われたセックス・ピストルズのライヴ。観客は42人だった。少人数ほど——歴史は大きくなる。最後の晩餐は12人、人類初飛行は6人、アルキメデスは風呂で1人」と。

この事と、ある男との出会いが岡山のインディーレーベルTRYART RECORDS設立のきっかけとなった。ただし結果から先に述べておくと、伝説は作れなかった。誰もトニー・ウィルソンにはなれなかったのだ。




Chapter:2

2003年の倉敷クッキージャーで


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